Turkish Pottery, 2016

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2014/10/08

ミヒャエル・エンデ『モモ』

















待つんなら、いくらでもできるもの
―ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫

大学生の時に図書館で借りて初めて読んで「エンデの言うとおりだ!」と大興奮し、これからも必要な本だからと思い、本屋さんで買って本棚に置いてありました。
今回、読書会「赤メガネの会」の課題図書でやっと再読。

節約した時間はどこに行ったのか。
無駄を省くことによって失っている豊かさがあるのではないか。
「うんうん、そうだよね」と読み進めましたが、当時と同じ興奮を味わうことができなかった自分に、ちょっとショックを受けました。
もしかしたら、エンデの警告をしっかり守れる大人になれたからかもしれません。
でもひょっとすると、エンデの警告を受け止められない大人になってしまったのかもしれません。
今の自分を映す鏡のような作品なのか。どうなんだろう。また時間をおいて自分を映してみたい。本棚には何冊か定期的に読み返したい本がありますが、今回の再読により『モモ』はその1冊になりました。


時間をケチケチすることで、
ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、
だれひとり気がついていないようでした

読書会では、「無駄な時間」についても話が盛り上がりました。
相手と一度も顔を合わせることなくメールのやりとりで仕事ができてしまう便利な時代。でも、書類の受渡しのときの何気ない会話から次のアイディアが浮かぶこともあるよね。それは果たして無駄な時間のだろうか。誰かということは重要でなく、効率と生産性だけが求められる緊張感。思い当たるエピソードが次々に出てきて私も頷く。
きっと番組でも同じだ、と考える。野菜と同じように「有機的」に作られたものはいつも受け取る人に心地いいものなのだと、腹の底から納得する。

それから、前回は「聞く」ということがとても心に残ったけれど、
今回は「待つ」ことについて考えさせられました。
次々に用件を述べ、順序良く話すことを求め、せっかく再会したのにモモの話を聞くことができなかった登場人物たち。すぐに答えを求めていないだろうか。話が終わる前に勝手に推し測ってしまっていないだろうか。会話に十分な余韻があるだろうか。
最近ちゃんと読書が出来ていないのは、きっと辛抱強く「待つ」ことが出来なくなっているからだ。(反省)

やれやれ、読書の秋。