マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』を滑り込みで見てきました。本当に本当に、素晴らしい映画でした。
おととし、初めて遠藤周作の原作を読みました。「なぜ神は沈黙していたのか?」あるいは「神は本当に沈黙していたのか?」という命題を突きつけられ、自分なりに腑に落ちる答えを見つけたつもりでした。しかしスコセッシの映画を観て、神の沈黙だけではないのだ。人々の沈黙、そしてパードレの沈黙と、様々に解釈出来ることに気づかされました。
翻訳の妙だと感じたのは『Silence』という英題です。スコセッシはきっと英語の翻訳で原作を読んでいるはず。「Silence」という言葉には「沈黙」の他に「静寂、静けさ」という意味もあります。スコセッシが鳴らす静寂が素晴らしかった。少なくとも私は、この静寂を遠藤周作の原作から感じ取ることができませんでした。
もう一つ、原作に無かった、静かだけれど雄弁なラストシーン。泣かない妻。祭壇の花。あるモノ。妻子をもらい岡田三右衛門となったパードレが、沈黙の余生をどう生きたかをほのめかす描写が散りばめられていて、28年かかってスコセッシが導き出した答えはこれか!と震えました。同時に「まだまだ読み込みが浅いね」と言われているみたいで、もう一度原作に向き合ってみようと思います。